格闘技

格闘技との出会い

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格闘技との出会い
それなりの柔道家であった若い頃の親父(大分代表)が、鬼の木村(熊本代表)と九州大会でトップを争っていたことは、懐かしい昔話としておふくろからよく聞かされていた。

あの力道山と死闘を繰り広げた腕緘(キムラロック)の木村政彦である。
その親父の息子が、後にその木村先生に拓殖大学で教えを請うことになるなんて因果とは不思議なものだ。
ただし、教えてもらったのは『スキー』である。磐梯山でスキー合宿の時に手ほどきを受けた。笑える!
もちろん、親父の話をたき火に当たりながらしてもらった。

子供の時は、母と兄と祖父との暮らしの中で、その父はいなかったが、確か小学5年生の頃から兄と共に柔道教室に通っていたと思う。
2年間ぐらいやった記憶がある。母は息子にかって愛した父を映していたのだろう。
祖父も九州大会で名を馳せた息子の再来を孫に託したのかも知れない。
「とうちゃんは、強かったのよ。あなたたちも男ならとうちゃんのように強くなりなさい」
中学に入り、大分大学の空手部の練習風景などよく見学していた記憶がある。一度この時期は武道から離れ、なんと180度違うテニス部に入っていた。
そして高校へ進学し、少林寺拳法と出会うのである。
ある日、校門の直ぐ横の壁に一枚の張り紙を見つけた。
「少林寺拳法」一文字が書いてあった。母に頼み込みその翌日入門することにした。そして2番目の門弟となり、拳法人生が始まったのである。高校、大学、社会人と少林寺拳法にグイグイ填まっていった。
しかし、大学運動部時代は良い思い出がない。一年生で一人新人戦に出た後の11月頃フェードアウトして退部した。
その半年後には池袋東方会館の裏手にあった太山倍達極真館空手の総本部にいた。館長先生、中村茂先生、ハワードコリンズ、佐藤初代世界大会チャンピョンなどと同じ道場で汗を流していた。
目が悪かった。メガネを掛けてはフルコンタクトの極真ではやっていくことができなかった。
コンタクトレンズに替えたが、当時は今のようなすばらしいソフトコンタクトもなく、仮に割れたら失明の恐れのあるハードコンタクトでしばらくやっていた。
ある日、中村師範に見つかり、「おまえ、失明するぞ。スジは良いのはわかっていたが、目を潰したら元も子もないだろう」と言われ、極真を後することになった。
荒れた。2年間ぐらい人生の目標をなくす、荒れた。
大学には毎日学ランの内ポケットにドスを忍ばせ通っていた。
当時の運動部というのは半端なく、安生君が死んだのも1年前であった。退部するなら100人組手で見送ってやると、延べ100人と組手して安生君は死んでいったのである。
荒れていた。4年生の一人の先輩だけは本気で刺しちがえる覚悟で通っていた。
そして、酒を飲み、たばこを吸い、麻雀に耽っていた。
ちょうど1年後、食えなくて始めたアルバイトガードマンの時に知り合った人に気に入られ、勧められるがままに起業した。23歳ぐらいの時である。もちろん、起業した警備会社の地下には少林寺拳法の道場を創った。
社会人の部として格闘技の練習の再開である。30歳までやって3段までもらった。
これが私の格闘技人生だ。今は、ひたすら妻との格闘技のTV観戦に漬っている毎日だ。


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